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砂時計の気まぐれ倉庫

過去にどこかに書いた文章の気まぐれな再録が中心です。

続・『獄門島』ネタバレアンケート【結果編】

(2011年10月23日にアップしたmixi日記の再録です)

 

 前回の日記にコメントでご回答をくださった方々、どうもありがとうございました。
 その結果と、なぜこういうアンケートを行なったのか、ということについて書きたいと思います。
 前の日記同様、コメント欄を含めてネタバレになりますので、横溝正史『獄門島』未読の方はこの先をお読みにならないでください。(今回も「今日のつぶやき」等はありません)

























 質問はこうでした。

 第一の死体発見現場で了然和尚が実際につぶやいた言葉は何でしたか?

 ここで「実際に」を強調していることで「ははーん」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか?すなわち、和尚は「ちがい」の意味でつぶやいたのだから、「ちがいじゃが仕方がない」と書くのは間違いで、「季ちがい」もしくは「きちがい」か「キちがい」と書かなければならない―と。

 しかし、自分の質問の意図はそこにはありません。
 問題にしたいのは和尚の発した言葉の「音」のみなのです。
 そこで、アンケート結果は、すべて平仮名にし、句読点は除いてまとめることにします。

 12人の方にお答えをいただきました。
 再度ご回答くださった方の場合はあとのほうを採っています。

 結果は以下の通りでした。

 「きちがいじゃがしかたがない」・・・8名

 「きちがいじゃがしかたない」・・・1名

 「きちがいだがしかたない」・・・1名

 「きがちがっているがしかたがない」・・・1名 

 「だれかのもてきにつづけ」・・・1名 

 では、原文ではどうなっていたのでしょう。
 和尚がその言葉をつぶやいたくだりを引用してみます(テキストは角川文庫旧版)。
 第六章「錦蛇のように」の最後の部分です(原文で傍点が付いている箇所は太字にします)。

 それからふかいため息とともに、口の中でなにやらもぐもぐつぶやいたが、このひとことが、のちのちまでも耕助の心のなかに強くのこったのである。
 耕助の耳には、たしかにそれが、つぎのようにききとれたのであった。
 「気ちがいじゃが仕方がない。―」


 「きちがいじゃがしかたがない」―12人中8人の方の答えがそれでした。助詞「が」の抜けや、「じゃが」と「だが」の違いといった細かい差異はありますが、もう2人の方の答えもほとんど同じといって差し支えないと思います。

 では、これで話は終わり?いえ、そこで「実際に」つぶやいた言葉は何だったか、ということになるわけです。
 第二十四章「「気ちがい」の錯覚」の中で、金田一耕助はこう語っています(重要なポイントを赤の太字で強調してみます)。

(略)警部さん、和尚さんのそのときつぶやいたことばは、ほんとうは『気ちがいじゃが仕方がない』ではなかったのですよ。キがちがっているが仕方がない、といわれたのです。それをぼくは勝手に気ちがいと要約し、それを狂人と解釈したのです。しかし、そのとき和尚さんのいわれたキは、気持ちの気ではなく、季節の季だったのです。すなわち、そのとき和尚さんは『季がちがっているが仕方がない』と嘆かれたのです。(略)そこで、和尚さんは『季がちがっているが、(これも嘉右衛門さんの遺志とあらば)仕方がない』と、いうふうに嘆かれたのです。(略)


 ここで金田一耕助はハッキリと、和尚がつぶやいた言葉は「きがちがっているがしかたがない」だったと説明しています。
 
 ここに「解釈の違い」が入り込む余地はあるでしょうか?つまり、金田一耕助の言葉を以下のように補足し、やはり「きちがいじゃがしかたがない」が実際につぶやいた言葉だったと受け取るということです。

 「ほんとうは『気ちがいじゃが仕方がない』(という意味)ではなかったのですよ。キがちがっているが仕方がない、と(いう意味で)いわれたのです」

 しかし、これは金田一耕助の説明の流れから見てかなり無理のある読解といわざるをえません。
 特に、「(「キがちがっている」を)気ちがいと要約し、それを狂人と解釈した」という部分がある以上、自分にはどうしても実際のつぶやきが「きがちがっているがしかたがない」だったとしか解釈できないのです。「季ちがい」という発語を「気ちがい」と「要約」したというのは日本語として変です。

 ここで問題になってくるのは、その言葉をつぶやいた場面の記述です。
 
 「耕助の耳には、たしかにそれが、つぎのようにききとれたのであった」

 実際のつぶやきが「きがちがっているがしかたがない」で、それを思い込みで別の言葉にすり替えてしまったという耕助の説明を真とすれば、進行形の場面でのこの書き方はアンフェアのそしりをまぬがれない、という気はします。
 ですが、あとの推理部分のほうの明確な説明を曲げるよりは、いささか苦しい書き方にせよ耕助がそう受け取ったという、不明確さを残した箇所のほうに違いを見出すのがより自然だと思うのです。

 自分がこの小説を初めて読んだのはたしか12歳の時でしたが、この部分についての感想は「ちょっとアンフェアな書き方だなあ、でも面白いからいっか」というものでした。
 そして、「季ちがい」という既存の言葉がないからこういうふうにしたんだろうけど、単語+「違い」で「○○違い」とする用法はあるわけだし、「季ちがい」といったことにしてもそれほど不自然じゃなかったのに、惜しいなあ、とも思いました。 (追記:複数の方から「季違い」という既存の言葉があるというご指摘をいただきました)
 実際、このような文章だからこその表現を使うわけにはいかない二次作品では、のちに観たり読んだりした市川映画やささやななえの漫画、JETの漫画などでも「きちがい」というセリフを和尚にいわせていて、それが「季ちがい」だったという説明を受けても何ら違和感なかったですし。

 それはともかくとして、和尚の言葉は本当は「きがちがっているがしかたがない」だったという認識に少しも揺らぎはありませんでした。

 そして何年か過ぎ、1980年、實吉達郎『シャーロック・ホームズの決め手』(青年書館)を購入して読んだ時に次のような文章にぶつかりました。

 同じような探偵小説のトリック謎はいくつか思い出せる。横溝正史の「獄門島」の犯人の一人である和尚がつぶやく「季ちがいじゃが仕方がない……」を「気ちがい……」とききまちがえる金田一耕助などは傑作だし、(略)


 それを読んだ自分は「この著者は読み間違いをしてるんだな」と思いました。
 今振り返ればこれが、自分と自分以外の『獄門島』読者の認識の違いに触れた最初だったのです。

 それ以後、ネタバレで『獄門島』について書いたり語ったりしたもので、自分と同じ認識を見かけたことがありません。
 和尚がつぶやいた言葉は「きちがいじゃが仕方がない」で、金田一耕助は「季ちがい」を「気ちがい」だと思った―それがいわば常識として存在していました。
 あれだけ作中で明確に書かれていることに反して、です。
 自分が前回の日記で書いた「長年不思議に思っていること」とは、そのことなのです。

 自分が見聞きした範囲ではたまたまそうだっただけなのか。
 それを確かめたくて今回のアンケートを行ないました。

 ご回答をいただいた方で、無効回答ぎみの1件(笑)を除いた11人のうち、「きちがいじゃがしかたがない」派の人が(近いものを含めて)10人という圧倒的多数。
 「きがちがっているがしかたがない」派は、わずか1名でした。
 自分の認識が少数派だということがこれで明らかになったわけです。

 自分には、何度読み返しても和尚が本当につぶやいた言葉は「きがちがっているがしかたがない」だったとしか解釈できません。
 多数派の方々が宗旨変えをしてくださるか(笑)、納得のいくような説明をしてくださるか、どちらかがない限り、自分の「不思議」は続くことになるでしょう。

 最後にもう一度感謝の言葉を。
 ご回答くださった方、本当にありがとうございました。