砂時計の気まぐれ倉庫

過去にどこかに書いた文章の気まぐれな再録が中心です。

(ネタバレ)『獄門島』で金田一耕助が説明しなかったこと

(2011年4月24日にアップしたmixi日記の再録です)

 

※以下の文章で横溝正史『獄門島』の真相部分について触れています。『獄門島』未読の方はお読みにならないでください(なお、今回の日記には「つぶやき」はありません)。




















 昭和五十年代の横溝正史ブームのさなかに出版され、話題を呼んだ一冊の本がありました。
 佐藤友之『金田一耕助さん・あなたの推理は間違いだらけ!』(青年書館・1978年1月刊)。
 同年の8月には2集が出版され、その後、この二冊からの抜粋で総集版も編まれました。

 本のコンセプトを簡単に説明すると、横溝正史作品の粗探しをして、それを金田一耕助の推理ミスと見立てた上で「真相」を提示するというお遊び。
 個人的には、誤読や誤解・曲解が多々見られる内容で良い印象を持っていないのですが、それについてはここでは触れません。

 取り上げたいのは1集の第三章「獄門島の盲点」における、ある指摘です。
 [事件の展開]からの引用。

 殺された花子の死体を調べてみると、ふところから月代にあてた手紙がでてきた。文面は「今晩七時、千光寺で待つ。寺は無人になる」といった意味のことが記されていた。差出人は「ご存じより」とある。この手紙は、志保が口述して鵜飼が書いたものだった。鵜飼と月代の仲をまとめるために、入れ知恵したのだという。手紙はいつも、ノウゼン桂の木の穴に入れておき、やりとりする。花子がその手紙をもって寺にやってきたのではないか、と考えられた(捜査メモ2)。当然、鵜飼にも疑いはむけられた。了然は、六時三十分ころ、鵜飼が寺に行くのを見たという。鵜飼は、七時から三十分ほど月代を待ったが来ないので帰ったと、寺に来たことは認めたが、犯行は否定した。
   捜査メモ2の解説 この手紙は、犯人を解くひとつのカギになる。記憶しておいていただきたい。


 次に、[金田一耕助の推理]からの引用。

 推理1 花子を殺したのは了然だった。
 花子は、六時十五分前後に家を出た。そのまま真直ぐ寺に行けば、当然、だれかに逢っている。にもかかわらず花子を見た者がいないのは、花子は、寺へ行く途中にある祠に隠れていたからだ。それを命じたのは了然である。「祠で待っているように」という手紙を鵜飼にたのまれたといってわたしたのだ。了然は了沢とともに寺を出てきたのだが、スキをみて祠にいる花子を鉄の如意棒で打ち殺し、なにくわぬ顔で本家にむかう。
 その後、花子がいなくなったと本家で騒ぎ出したとき、了然は、ひと足さきに帰り、途中、祠から花子の屍体をかつぎだしてきて、梅の木に吊した。(略)
 推理1の反論 花子のフトコロには、鵜飼が月代にあてた手紙が入っていた。その手紙は、鵜飼の直筆だった。この手紙を花子が最初から持っていたのだとすれば、了然から祠で逢おうという手紙を受取ったとき、大いに悩んだろう。鵜飼は二人の姉妹と同じ日の同じ時刻に逢引きの約束をしていたのだし、しかも祠で逢おうという手紙はニセモノである。ニセモノとは気づかないにしても、「自分を遠ざけるためにこのような手紙をよこしたのではないか」といった疑いは、当然いだいただろう。花子は、月代にあてた手紙を盗んで寺にやってきたのだから。


 『獄門島』初読時、自分はこの“二つの手紙”の存在に気づいていませんでした。
 たしかに、この作品には、死体から発見される、鵜飼が月代を境内に呼び出した内容で、それを花子が入手したとされていた手紙と、金田一が推理を語る段になって初めて話にのぼる、犯人が鵜飼の名を騙って花子を祠に呼び出した手紙の二種類が存在します。
 そして、前者の手紙については、謎解き場面で金田一は何も語ってくれません。

 これは作者のミスなのでしょうか?
 金田一の推理に出てくるほうの手紙は存在しなかった、金田一が実はちょっと思い違いをしていただけなのだ、と解釈して納得すべきなのでしょうか?

 いえ、間違いなく手紙は二つとも実在したのです。
 
 この第一の殺人の眼目は、死体移動によって殺人の時と場所を誤認させることでアリバイを確保することでした。
 実際の殺人は祠で行なわれた。しかし、それが行なわれたのは境内だと思わせる必要があった。
 それには、被害者が自ら境内に赴く理由が無ければならない。
 そのために犯人は“手紙のすり替え”を行なったのです。
 
 順を追うとこのようになります。
 
・のうぜんかつらでの月代と鵜飼の手紙のやり取りを知り、手紙を横取りしたのは、花子ではなく犯人だった(この手紙を「手紙A」とします)。
・犯人は、鵜飼の名で書いた手紙を花子に渡し、祠に隠れて待つよう仕向けた(この手紙を「手紙B」とします)。
・花子を殺害。
・やがて、死体を背負って境内へ。この時に「手紙A」と「手紙B」のすり替えが行なわれた。

 「手紙A」も「手紙B」もこの犯行には不可欠なものでした。
 「手紙A」は、前述したように被害者が自ら境内に赴いたと納得させるかりそめの理由を作るため(これによって、謎解き部分で金田一が「白状」した「大きな盲点」が生み出されたわけです。なお、月代あての手紙を花子が持っていた理由に関して「花子が姉を出し抜こうとした」という説明付けを行なったのも犯人でした)。
 「手紙B」は犯行の機会を作るため。
 この二つの手紙は、第一の殺人におけるメイントリックを成立させるためのものでもあったのです。

 謎解き場面で金田一はこのすり替えについては語りませんでした。
 しかし、作中の記述を拾っていくと、それが最初からプロットに組み込まれていたものだと確信できます。
 作者がわざと説明を省いたのか、それともうっかり忘れただけなのか、そこまでは判らないにしても。
 このことに気づいた時、あらためて、この作品の探偵小説としての強度に感嘆させられたのでした。

(長々と書きましたが、同じことを考えている読者はもしかしたら多いかもしれません。自分にしたところで、三十年ほども前に気づいたことを今こう して初めて文章にしたのですから。もし既出のもので同じ見解が述べられている文献をご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えいただければ幸いです)

 

追記:この日記を書いたあと、ふと、手紙Bの代わりに言伝という可能性もある(そうすれば手紙B回収の必要はなくなる)ということに気づいたのですが、金田一の推理を犯人が否定しなかったので、手紙B存在説を採ります。いずれにしろ、手紙Aはもともと花子が持っていたわけではなく殺害後に入れられた、そしてそのことを金田一が説明しなかった、というポイントは動かないと思うので。

続・『獄門島』ネタバレアンケート【結果編】

(2011年10月23日にアップしたmixi日記の再録です)

 

 前回の日記にコメントでご回答をくださった方々、どうもありがとうございました。
 その結果と、なぜこういうアンケートを行なったのか、ということについて書きたいと思います。
 前の日記同様、コメント欄を含めてネタバレになりますので、横溝正史『獄門島』未読の方はこの先をお読みにならないでください。(今回も「今日のつぶやき」等はありません)

























 質問はこうでした。

 第一の死体発見現場で了然和尚が実際につぶやいた言葉は何でしたか?

 ここで「実際に」を強調していることで「ははーん」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか?すなわち、和尚は「ちがい」の意味でつぶやいたのだから、「ちがいじゃが仕方がない」と書くのは間違いで、「季ちがい」もしくは「きちがい」か「キちがい」と書かなければならない―と。

 しかし、自分の質問の意図はそこにはありません。
 問題にしたいのは和尚の発した言葉の「音」のみなのです。
 そこで、アンケート結果は、すべて平仮名にし、句読点は除いてまとめることにします。

 12人の方にお答えをいただきました。
 再度ご回答くださった方の場合はあとのほうを採っています。

 結果は以下の通りでした。

 「きちがいじゃがしかたがない」・・・8名

 「きちがいじゃがしかたない」・・・1名

 「きちがいだがしかたない」・・・1名

 「きがちがっているがしかたがない」・・・1名 

 「だれかのもてきにつづけ」・・・1名 

 では、原文ではどうなっていたのでしょう。
 和尚がその言葉をつぶやいたくだりを引用してみます(テキストは角川文庫旧版)。
 第六章「錦蛇のように」の最後の部分です(原文で傍点が付いている箇所は太字にします)。

 それからふかいため息とともに、口の中でなにやらもぐもぐつぶやいたが、このひとことが、のちのちまでも耕助の心のなかに強くのこったのである。
 耕助の耳には、たしかにそれが、つぎのようにききとれたのであった。
 「気ちがいじゃが仕方がない。―」


 「きちがいじゃがしかたがない」―12人中8人の方の答えがそれでした。助詞「が」の抜けや、「じゃが」と「だが」の違いといった細かい差異はありますが、もう2人の方の答えもほとんど同じといって差し支えないと思います。

 では、これで話は終わり?いえ、そこで「実際に」つぶやいた言葉は何だったか、ということになるわけです。
 第二十四章「「気ちがい」の錯覚」の中で、金田一耕助はこう語っています(重要なポイントを赤の太字で強調してみます)。

(略)警部さん、和尚さんのそのときつぶやいたことばは、ほんとうは『気ちがいじゃが仕方がない』ではなかったのですよ。キがちがっているが仕方がない、といわれたのです。それをぼくは勝手に気ちがいと要約し、それを狂人と解釈したのです。しかし、そのとき和尚さんのいわれたキは、気持ちの気ではなく、季節の季だったのです。すなわち、そのとき和尚さんは『季がちがっているが仕方がない』と嘆かれたのです。(略)そこで、和尚さんは『季がちがっているが、(これも嘉右衛門さんの遺志とあらば)仕方がない』と、いうふうに嘆かれたのです。(略)


 ここで金田一耕助はハッキリと、和尚がつぶやいた言葉は「きがちがっているがしかたがない」だったと説明しています。
 
 ここに「解釈の違い」が入り込む余地はあるでしょうか?つまり、金田一耕助の言葉を以下のように補足し、やはり「きちがいじゃがしかたがない」が実際につぶやいた言葉だったと受け取るということです。

 「ほんとうは『気ちがいじゃが仕方がない』(という意味)ではなかったのですよ。キがちがっているが仕方がない、と(いう意味で)いわれたのです」

 しかし、これは金田一耕助の説明の流れから見てかなり無理のある読解といわざるをえません。
 特に、「(「キがちがっている」を)気ちがいと要約し、それを狂人と解釈した」という部分がある以上、自分にはどうしても実際のつぶやきが「きがちがっているがしかたがない」だったとしか解釈できないのです。「季ちがい」という発語を「気ちがい」と「要約」したというのは日本語として変です。

 ここで問題になってくるのは、その言葉をつぶやいた場面の記述です。
 
 「耕助の耳には、たしかにそれが、つぎのようにききとれたのであった」

 実際のつぶやきが「きがちがっているがしかたがない」で、それを思い込みで別の言葉にすり替えてしまったという耕助の説明を真とすれば、進行形の場面でのこの書き方はアンフェアのそしりをまぬがれない、という気はします。
 ですが、あとの推理部分のほうの明確な説明を曲げるよりは、いささか苦しい書き方にせよ耕助がそう受け取ったという、不明確さを残した箇所のほうに違いを見出すのがより自然だと思うのです。

 自分がこの小説を初めて読んだのはたしか12歳の時でしたが、この部分についての感想は「ちょっとアンフェアな書き方だなあ、でも面白いからいっか」というものでした。
 そして、「季ちがい」という既存の言葉がないからこういうふうにしたんだろうけど、単語+「違い」で「○○違い」とする用法はあるわけだし、「季ちがい」といったことにしてもそれほど不自然じゃなかったのに、惜しいなあ、とも思いました。 (追記:複数の方から「季違い」という既存の言葉があるというご指摘をいただきました)
 実際、このような文章だからこその表現を使うわけにはいかない二次作品では、のちに観たり読んだりした市川映画やささやななえの漫画、JETの漫画などでも「きちがい」というセリフを和尚にいわせていて、それが「季ちがい」だったという説明を受けても何ら違和感なかったですし。

 それはともかくとして、和尚の言葉は本当は「きがちがっているがしかたがない」だったという認識に少しも揺らぎはありませんでした。

 そして何年か過ぎ、1980年、實吉達郎『シャーロック・ホームズの決め手』(青年書館)を購入して読んだ時に次のような文章にぶつかりました。

 同じような探偵小説のトリック謎はいくつか思い出せる。横溝正史の「獄門島」の犯人の一人である和尚がつぶやく「季ちがいじゃが仕方がない……」を「気ちがい……」とききまちがえる金田一耕助などは傑作だし、(略)


 それを読んだ自分は「この著者は読み間違いをしてるんだな」と思いました。
 今振り返ればこれが、自分と自分以外の『獄門島』読者の認識の違いに触れた最初だったのです。

 それ以後、ネタバレで『獄門島』について書いたり語ったりしたもので、自分と同じ認識を見かけたことがありません。
 和尚がつぶやいた言葉は「きちがいじゃが仕方がない」で、金田一耕助は「季ちがい」を「気ちがい」だと思った―それがいわば常識として存在していました。
 あれだけ作中で明確に書かれていることに反して、です。
 自分が前回の日記で書いた「長年不思議に思っていること」とは、そのことなのです。

 自分が見聞きした範囲ではたまたまそうだっただけなのか。
 それを確かめたくて今回のアンケートを行ないました。

 ご回答をいただいた方で、無効回答ぎみの1件(笑)を除いた11人のうち、「きちがいじゃがしかたがない」派の人が(近いものを含めて)10人という圧倒的多数。
 「きがちがっているがしかたがない」派は、わずか1名でした。
 自分の認識が少数派だということがこれで明らかになったわけです。

 自分には、何度読み返しても和尚が本当につぶやいた言葉は「きがちがっているがしかたがない」だったとしか解釈できません。
 多数派の方々が宗旨変えをしてくださるか(笑)、納得のいくような説明をしてくださるか、どちらかがない限り、自分の「不思議」は続くことになるでしょう。

 最後にもう一度感謝の言葉を。
 ご回答くださった方、本当にありがとうございました。

『獄門島』ネタバレアンケート

(2011年10月17日にアップしたmixi日記の再録です。アンケートは当時に行なったものです)

 

 横溝正史『獄門島』に関して―というよりもそれを読んだ人が書いたり語ったりしている内容に関して、長年不思議に思っていることがあります。

 それが自分の見聞きしている範囲だけなのかどうか確かめるため、皆さんのご協力を仰ぎたいと思います。

 以下、コメント欄を含めてネタバレになりますので、『獄門島』未読の方はこの先をお読みにならないでください。(なお、今回は「今日のつぶやき」等はありません)

























 横溝正史『獄門島』を読んだことのあるすべての方にお聞きします。

 第一の死体発見現場で了然和尚が実際につぶやいた言葉は何でしたか?

 小説を読み返さずに記憶だけでお答えください(コメントは補足等を加えずにその言葉のみをお書きくださるとありがたいです)。

 

特命課の推理と証明 -ミステリとしての長坂特捜-

(2006年5月21日にアップしたmixi日記の再録です)

 この度DVD化が決定した『特捜最前線』。 
 この作品の人間ドラマとしての素晴らしさ、刑事ドラマとしての面白さについては多くの人が語っているのを目にする機会があるけれど、ミステリとしての評価を見かけることは少ないように思う。 
 自分は、このドラマの中で長坂秀佳が脚本を書いた推理色の強い作品群は、日本の映像ミステリの中でもトップクラスの質と面白さを誇るものだと思っている。『特捜』が放映されていた頃、自分にとって脚本家・長坂秀佳は、横溝正史高木彬光鮎川哲也都筑道夫といった人たちと並ぶ「好きなミステリ作家」の1人だったのだ。 

 長坂特捜(自分は勝手にこう呼んでいるのだが)の中で、謎解きもの好きのミステリファンとしての自分の好みで傑作を10本選ぶと次のようになる(他にも例えばサスペンス主体の作品ならまた別のセレクトに、というように長坂作品には多彩な傑作が多いのだけれど)。 

114話「サラ金ジャック・射殺犯桜井刑事!」 
 篭城中のサラ金強盗を射殺した桜井。人質たちの証言によってその発砲の正当性が疑われ、査問委員会が開かれる。沈黙を守る桜井。彼は本当に無抵抗の犯人を故意に撃ち殺したのか? 「証明」の波状攻撃によって解き明かされる真実。 

155話「完全犯罪 ・350ヤードの凶弾!」 
 特命課刑事たちの監視下で射殺された代議士。橘はその場にいた大物政治家に疑いをかけ、辞職をかけて捜査に挑む。長坂特捜で唯一、冒頭に犯行の経緯を見せる「コロンボ」タイプの倒叙ミステリ。 

169話「地下鉄・連続殺人事件!」 
 地下鉄の駅で次々と起こる殺人。被害者は皆、犯人によって切符を握らされていた。その意味とは? 被害者たちの関連性は? 容疑者夫婦の無実を信じて滝が駆ける。切符に隠された意味を滝が悟る謎解き場面は圧巻。 

186話「東京、殺人ゲーム地図!」 
 バイクで人をはね、被害者の衣服からボタンを取っていく奇妙な通り魔。やがてそれは連続殺人に発展する。叶は、評論家として犯人の動きを逐一予告し的中させる元上司に疑いを抱くが……。「殺人ゲーム」の規則性と序盤の伏線が味あわせてくれる知的快感。 

251話「午後10時13分の完全犯罪!」 
 エリート警視が企んだ完全犯罪。桜井はそれを崩すことができるのか。「コロンボ」の犯人役吹替えの印象も強い田口計をゲストに迎えた対決もの。 

260話「逮捕志願!」 
 15年前の殺人を告白し、叶に逮捕してくれと願い出てきた男。事件は獄中死した通り魔の一連の犯行の1つとして片づけられていた。男の言葉を信じて捜査を始める叶だが、その主張とは矛盾する事実が明らかになってくる。男は本当に殺人を犯したのか?時効の時が迫る。 

351話「津上刑事の遺言!」 
 4年前に起きた交通死亡事故。歩行者用信号が青だったことを証明すると被害者の息子に約束し、その直後殉職してしまったかつての仲間・津上の遺志を継ぎ、捜査を始める特命課。事故を目撃していたという幻の老婆はどこに? 理詰めの捜査、突き当たる壁、それを打ち破る論理のアクロバット。津上が残した言葉をヒントに謎を解いていく構造が感動を呼ぶ。 

399話「少女・ある愛を探す旅!」 
 自殺しようとしていた少女を救った的場と橘。彼女には戸籍が無かった。戸籍取得のため出生を証明する捜査の過程で、彼女の母親が犯したとされている殺人事件が浮かび上がる。橘は彼女の戸籍と母親の無実を手に入れることができるのか。たった1つの証拠品に行き着く証明の行方と、その方向を示した桜井の推理のハード・パズラーっぷりが秀逸。 

418話「少年はなぜ母を殺したか!」 
 母親殺しで起訴された少年。本人が犯行を認めている中、弁護士・仲田亮子は無罪を主張する。その裏には特命課の影が。全編が法廷シーンという裁判ミステリ。 

420話「女未決囚408号の告白!」 
 保険金目当てで夫を殺害した容疑で逮捕された女。動機も証拠もあり、本人の自白も得られた。だが送検後、調書を見直していた桜井は2つの点に引っかかりを覚える。凶器から欠落していた指紋。そして、現場の隣に住む幼女が聞いたという謎の言葉「メリーさんの羊」。捜査は本当に完璧だったのだろうか。裁判の日が迫る中、桜井は敵意向き出しの未決囚の元へ日参し、真実を突きとめようとするが――。伏線とミスディレクション、そしてホワイダニット。謎解きと人間ドラマの融合。 

 いわゆる「本格ミステリ」は映像作品には向かないという意見をよく聞く。その主な理由としては、探偵役が長々と真相を説明するシーンを絵で見せられるとダレてしまう、というのが挙げられるが、それ以外にも理由があると思う。小説の場合は「文章を読む」という能動的な作業によって読者が伏線を取り込んでいくために、解決編でその真の意味が浮かび上がってきた時の知的快感をダイレクトに味わうことができるけれど、映像作品ではそうはいかない、ということが大きいのではないだろうか。 
 では、映像ミステリでは小説に匹敵する「論理による快感」は味わえないのか。答はNOであり、それを教えてくれたのが、中学生の時に出会った長坂特捜だった。 
 その作品のうちの多くに共通する特徴である、「ある事実を証明する」という形式は、謎解きのベクトルと物語のベクトルが完全に同一であり、「論理」が「物語」を支配し、「物語」が「論理」を支える形となって、「知」の快感と「情」の感動を同時に味わわせてくれるのだ。また、「なぜ」「何が起こったのか」という種類の謎をメインとする作品もあり、これも同様の快感と感動を与えてくれる。 
「犯人当て」でも「トリック解明」でもない、より物語と深く結びついた謎解きの形がある。それを長坂特捜で知ったことは、その後の自分のミステリファンとしての嗜好に大きく影響を及ぼしているような気がする。 
 連城三紀彦『戻り川心中』、加納朋子ななつのこ』、横山秀夫『陰の季節』といった作品に感じる魅力は、自分にとっては長坂特捜の延長線上にあるのだから。